≪第1回≫八上城跡と波多野秀治表忠碑

兵庫県篠山市八上にある、八上城跡に行ってきました。実は行ってきたのはまだ8月の後半で、恐ろしく暑い中でした。篠山口駅のすぐ北にあるJR西日本篠山口鉄道部*1で自転車を借り、約1時間半(休憩含む)で八上城跡の入口へ。さらに1時間程度山登りをし、ようやく八上城跡の主郭部にたどりつきました。
さて、話に聞く波多野秀治表忠碑はと…おお、伝本丸にどでんと波多野秀治公表忠碑が鎮座しておるではないか。
ほお、昭和6年(1931)の建立で、毛利本家の当主・毛利元昭*2の揮毫で立派な石碑がある。さらにその脇には漢文で石碑の説明文が…とりあえず書き下してみました。

(※ 改行は碑文に合わせています。句読点もAboshiがふっていますが、間違っていたらすいません)
波多野秀治公表忠碑
永禄三年正親町天皇即位時朝廷式微不能行礼。応仁以来干戈相踵諸道豪族不遑
輸葵傾之情。波多野秀治天性至忠聞之慨歎与同宗高及毛利元就相謀献金助儀。於是
乎盛典始挙。叡感不斜叙任秀治于右衛門大夫正四位下侍従。 大正天皇又追賞旧功
従三位枯骨生光其喜果如何哉。夫天下之乱至元亀天正而極矣。中原之鹿果帰于誰
手歟。秀治剛勇占拠堅城威壓四隣、与織田信長争武。部将明智光秀丹波招降秀治不
肯。乃送其母為質詐謀誘致、将星空隕。痛恨曷勝然翻思。秀治雖大志不成基忠勇烈之気
炯々上貫霄漢、真足以扶持世道人身万世之下也。高城山史蹟顕彰会欲伝諸不朽今
茲募資挙郡響応、豊碑忽成。公爵毛利元昭題曰「贈從三位波多野秀治公表忠碑」。嗚呼公
之大節巍然与山河並存一対此貞萊誰有不起忠誠之念者哉。抑道之在人心万古一日
不以堯舜桀紂而加損焉。正気時放光亦足、以見民彝物則之不可萊矣。
昭和七年七月一二日

陸軍少将從四位勲三等功四級 古川岩太郎*3 題
兵庫縣立鳳鳴中學校教諭 從六位 吉武三次郎*4 撰

(Aboshiによる書き下し)
永禄三年*5正親町天皇即位の時、朝廷式微*6して礼を行うあたわず。応仁以来干戈相踵*7し、諸道の豪族葵傾*8の情を輸(ささ)ぐ遑(いとま)なし。波多野秀治天性至忠、之を聞くに慨歎し同宗高及び毛利元就と相謀りて献金して儀を助く。是に於いて盛典始めて挙ぐ。叡感斜めならず、秀治を右衛門大夫・正四位下侍従に叙任す。大正天皇また旧功を追賞して従三位を贈る。枯骨*9生光その喜び如何や。それ天下の乱 元亀天正に至りて極まれり。中原の鹿 果たして誰の手に帰さんや。秀治剛勇にして堅城を占拠し、四隣を威圧して織田信長と武を争う。部将明智光秀 丹波を攻めて秀治を招降するも、肯んぜられず。乃ち其の母を送りて質と為す詐謀にて誘致し、将星空しく隕(お)つ。痛恨、曷(なん)ぞ勝然とするに、翻思せしや。秀治大志成らざると雖も、基忠勇烈の気 炯々として上に霄漢*10を貫き、真に世道万世の下を扶持するを以て足るなり。高城山史蹟顕彰会 諸を不朽に伝えんと欲し、今茲に資を募るに郡を挙げて響応し、豊碑忽ち成る。公爵毛利元昭題して曰く「贈従三位波多野秀治公表忠碑」と。嗚呼公の大節巍然として山河と並存一対し、此の貞の萊たる、誰か忠誠の念を起さざる者有りや。抑も道の人心に在るは万古一日堯舜桀紂*11を以て加損せず。正気*12時に光を放ちて亦た足され、以て民彛物則の泯(ほろ)ぶべからざるを見る。

間違いなどあったらご指摘賜るとありがたく存じます(あるに決まってるが)。とりあえず、碑文からは以下のことがわかりますね。

  1. 波多野秀治は、同族の波多野宗高や毛利元就とともに正親町天皇の即位の費用を献上し、右衛門大夫、正四位侍従に任命された。
  2. 大正天皇による位階追贈は、この功績によるものである。
  3. 高城山(=八上城跡のある山)史蹟顕彰会という組織が存在し、この旗振りによって資金募集がなされて表忠碑ができた。
  4. 昭和6年当時は、朝廷に忠誠を尽した波多野秀治を地元が顕彰していた

ほお、なるほど。地元が波多野秀治を盛り上げていたことはよくうかがえます。ただ、位階追贈(大正4年)と碑の建設(昭和6年)までに間があるのが気にはなりますけどね。また、城跡などをあちこち廻った感じでは、大正から昭和初年にかけてできた戦国武将の石碑の多くは、「朝廷に尽くした」ことを顕彰しているので(尾張勝幡城跡の織田信秀を讃える碑文などは端的ですな)、石碑は同時代的にみると類型的(ただし規模がかなり大きいが)です。ところで、
<(疑問)永禄3年に波多野秀治は朝廷に金をくれてやる余裕はあったのか?>
毛利元就正親町天皇即位の礼献金したのは一次史料も残っている有名な話なのですが*13、そこに波多野氏が一緒だった、いやどちらかいうと波多野氏メインだったという話が、どうにも疑わしいと感じずにはいられません。波多野氏や三好氏や朝廷関連の研究や伝記には出てきませんでした。また、これらの書籍からざくっと史実の可能性が高いことだけを年表を出すと
・天文24年(1555)9月 三好氏の将・三好長逸が生瀬口*14から多紀郡に入り八上城を攻撃するが失敗、波多野氏と和睦を結んで撤退する。この後、三好氏と波多野氏はたびたび抗争する。
・永禄2年(1559)12月 三好氏の将で丹波八木城主の松永長頼が波多野秀親・次郎親子に八上城攻めの功績として恩賞を出す文書が残っている。波多野秀親は当時の波多野氏当主・元秀の弟と推定されており、この文書はこの年の八上城攻めの前に波多野秀親が三好方に寝返り、同城が落城するのに貢献したことを示していると考えられている。
・永禄3年(1560)正月 正親町天皇の即位の大礼。三好長慶が警固を務める(『言継卿記』『伊勢貞助記』)
・同2月 正親町天皇毛利元就に即位の大礼の費用を献上したことを嘉し、陸奥守に叙任する旨の綸旨を送る(『御湯殿上日記』)
・同10月 三好長慶が河内守護の畠山氏の城を包囲していたため、畠山氏を援助するために波多野右衛門(秀治?)が一族の香西道印などとともに山城・宇治に出兵するが松永長頼によって敗れ、道印と「右衛門の兄弟」が敗死する(『長享年後畿内兵乱記』)。
・永禄9年(1566)2月 波多野元秀が八上城を奪回する(『細川両家記』)。
永禄3年当時、波多野氏は本拠地の八上城を失い、一門まで離反する中、多紀郡船井郡の残った拠点でなんとか三好氏に抵抗している状況と推測できるわけだが、こんな状況で朝廷に献金ができるのでしょうか?しかも即位の大礼の警固役は敵の三好長慶だというのに、警固の一員に入り込めるんでしょうか?また、そもそも当時、毛利元就と波多野氏とのつながりはあったのでしょうか?素人考えながら、疑問符ばかり浮かんできますね。

*1:鉄道部とは、JR西日本の路線の一定区間ごとに組織分けし、地域密着を目指したことを目的に生まれた組織の下位クラスターで、支社に所属する。篠山口鉄道部は福知山線新三田―福知山間を管理し、福知山支社に所属するそうな。受付で自転車を借りる際、すぐ奥で運転士と管理する人がこれから運転する列車のことを大きな声で復唱し合っていて、なかなかに壮観でした。もっとも福知山線は大事故が起きたばかりで、緊張感がしっかり残っているのでしょう。なお、自転車は1日500円でレンタルでき、日をまたいでも2日分払えばいいだけなので、私のようなマニアックに八上を目指すのではなく、篠山市中心部の観光にも十分使えます

*2:1865-1938。長州藩最後の当主・毛利元徳の長男で公爵。何も確認していないのでいけませんが、ウィキペディアによると書が得意で、各地の碑文の揮毫を行ったそうですね

*3:1868-1940、軍人・政治家。篠山出身。士官学校卒業後、日清・日露戦争に従軍し、日露戦争では満州軍司令部に入り、司令官の大山巌の副官を務める。大正7年(1918)に予備役編入、地元篠山に戻る。大正9年に篠山町長となり、19年間の長きに渡って地元の振興に尽くした。

*4:未確認。文中の熟語の使い方などから国語の先生か、教養のある人なのだろうとはうかがえます。なお、鳳鳴中学校は明治12年(1879)に旧篠山藩士や藩主などの肝煎りで始まり、現在も篠山鳳鳴高校として健在です

*5:1560年。同じ年に上杉謙信が関東に進駐し、織田信長桶狭間今川義元を打ち取るなど、戦国まっただ中な時期です。

*6:しきび、衰退すること

*7:そうしょう、相次ぐこと

*8:君主や人の徳を尊び忠誠を尽すこと。葵の花が太陽に傾くことからの比喩。

*9:ここつ、朽ち果てた骨、死んだ人

*10:しょうかん、大空、天空。漢は天の川のこと

*11:堯・舜・桀・紂は中国の伝説上の名君と暴君。ここれは、道(ここでは忠誠心や義を重んじる心)が人の心に太古からあったわけではないことを強調している

*12:天地の間に満ちる正直、剛直な気概(『漢辞海』)。ここでは南宋文天祥(1236-1282)の「正気の歌」を下敷きに読むと理解しやすくなる。(10/22追加 すいません。どちらかいうと前提になっているのは藤田東湖の「正気の歌」でした。詳しくはhttp://d.hatena.ne.jp/Genza_Aboshi/20081022をご参照のこと。

*13:ゲーセンの『クイズマジックアカデミー5』の問題にまで出てくきたときには吹きましたが

*14:わかりやすくいえば、JR福知山線経由