予告編になるのかならないのかわからない話

ええと、ずっと以前に「波多野秀治*1なんて戦国丹波の小領主が何で大正4年にもなって従三位なんて高い位階を追贈?」なんてことをちらっと書きました*2。なんだか気になって追贈当日の官報を見ると、大正4年11月10日ってのは大正天皇の即位の大礼の日だったのね。官報によると100人以上の故人(というか歴史上の人物)に追贈が行われている。で、波多野秀治はと…あった。
従三位 故 正四位下 波多野秀治
従三位 故 正四位下 波多野宗高
ああ、元々官位が正四位下だったから一階あげて従三位ということですか。しかし、もともと正四位下ってちょっと位階が高かないですか?たとえば、当時の将軍様足利義輝も生前は従四位下参議*3だし、正親町天皇即位式献金*4た中国地方の大大名・毛利元就でも従四位上陸奥*5なのに。丹波のうちでも多紀*6・船井*7の二郡をやっと抑える程度の波多野秀治がなんで…わからん。さらに波多野宗高って誰?ゲーム『信長の野望』に出てきてた記憶もあるが、そんなおよそ知名度もない人が従三位?しかも生前も正四位下?ええっ?
ちょっと気にして現在調べてます。八上城跡(篠山市八上)にもわざわざ行ってしまいました。上にこまごま出典をつけているように、日本史なんてオタク的知識しかない私ながらちょっとがんばってます。なんかわかったら、ちょっとずつここでも書いていくことにしますが、そこまでいくかどうか…とりあえず、今の観点は以下のとおり。
1 追贈以前の正四位下の位階について(中世史/近代史?)
 丹波の小領主にしては異数の位階である正四位下をどうして与えられたのか?ただし、この問題は「1)正四位下が明治以降の追贈」「2)正四位下の位階は実際には得ていないが、江戸時代の軍記物や明治・大正の(郷土)史家のミスリードにより、宮内庁が誤ってしまった」という近代史の問題である可能性が残っている。
2 従三位の追贈について(近代史)
 追贈の経緯。肥前小城藩士出身で大審院判事・司法大臣・東宮大夫宮内大臣などを歴任した波多野敬直(1850-1922)という人物がいるが、この人は波多野宗高の子孫を自称してたらしい。東宮大夫宮内大臣という経歴につけ、なんとも政治的においがぷんぷん。また、八上城跡には昭和6年に「波多野秀治表忠碑」が地元の「高城山顕彰会」によって建てられている。地元(特に郷土史家)からの動きも想像できる。
3 で、波多野宗高って誰?(中世史?近代史?)
 氷上郡氷上(丹波市)の豪族に波多野宗高という武将がいたらしい。ただ、ちょっと波多野氏や八上城関連の論文を拾って読んだが、ちっとも出てこない。そりゃあ「波多野」というからには八上の波多野氏の同族なのだろうが、この人、何者で何をした人なんだ?で、なんでよくわからない人のくせに正四位なんて官位を得て、大正になってさらに従三位を追贈されるんだ?
ひとまず以上。でも丹波の戦国時代の歴史って、内藤・波多野・赤井の三大勢力がみんな滅ぶわ、うまいこと明智光秀にひっついた豪族も並河氏・安田氏みたいに光秀の破滅の道連れ食らってたりするし、史料残りにくそうだな。逆にいえば、後世の軍記物の作者や、郷土史家の想像の羽がいくらでも広がりそうな悪寒…

*1:?-1579、丹波戦国大名または小領主(研究文献や辞書によって表記が割れてる)。丹波波多野氏は15世紀末に波多野清秀(1443-1504)が管領細川政元の被官として多紀郡の小守護代となったことから丹波に地を下ろした。子の元清の代に細川氏の分裂を利用して勢力を拡大し、事実上の丹波守護代に。ところが畿内の最大勢力となった三好長慶(1522-64)と対立し、秀治の父、元秀のときに本拠地・八上城まで失陥する。秀治の自称or実際の官位は右衛門大夫。彼の初出は永禄3年(1560)10月に三好氏と対立する畠山高政に呼応し、縁戚の香西氏と宇治まで出兵した「波多野右衛門」と思われる(『長享年後畿内兵乱記』)。永禄9年の八上城奪還(『細川両家記』)後に家督を相続、元亀元年(1570)には上洛した織田信長に服属して太刀や馬を献上。しかし天正3年(1575)に離反して氷上郡黒井(丹波市)の赤井氏とともに織田信長に激しく抵抗。しかし天正7年(1579)に八上城を攻囲する明智光秀に降伏し、安土で処刑された。って長っ

*2:2006年8月14日/http://d.hatena.ne.jp/Genza_Aboshi/20060814

*3:公卿補任

*4:『毛利家文書』に正親町天皇の忠節を嘉す文書が所収。永禄三年二月十五日

*5:『歴名土代』『御湯殿上日記』永禄五年七月二日、ただし元就は同年中に石見銀山を尼子氏から奪取すると、名目上銀山を御料所として自らはその代官となるよう取り計らうなど朝廷の権威を巧みに利用する。元就が朝廷の使い道を熟知していたのは、安芸の小豪族であったころに、親分・大内氏の朝廷への接し方をよく見ていたからだが。

*6:現在の兵庫県丹波地方の南部。篠山盆地を中心とする

*7:現在の京都府中部。中心地は八木盆地。ただし当時その八木には守護代の生き残りの内藤氏がいたので波多野氏の支配できた領域は限られる。内藤氏は口丹波(土地勘のある方は亀岡から園部あたりと思ってください)を支配する勢力。室町時代初期に足利尊氏によって内藤氏が桑田・船井の二郡を与えられ、室町時代には守護代として繁栄。戦国時代には三好氏についたものの、対立する細川晴元方の三好政勝・香西元長らに八木城を落され、当主は討死。ただしすぐ近くで波多野方の神尾寺城(亀岡市)を囲んでいた三好の将・松永長頼がその日のうちに城を奪回し、内藤氏の名跡を継ぐ。その松永長頼によって一時は内藤氏は再び丹波で強勢を誇り、永禄2年には波多野氏本拠・八上城まで落城させ、赤井氏の氷上郡を除く丹波のほとんどの領域を支配。波多野氏は勢力を失って一時多紀郡内に潜伏。ただし長頼は永禄8年に丹波氷上郡赤井直正と交戦し敗死。内藤氏はその後赤井氏、波多野氏に攻め立てられ勢力を小さくした。最後は信長の将・明智光秀によって八木城は落ちた。ところがこの内藤家最後の当主のはずの内藤如安がしぶとく小西行長配下のキリシタン武将として歴史に名を残すわけですが…ってまたしても長っ)がいたので、波多野氏の支配できた領域は限られる