よっこらしょういち

ご無沙汰です。もはやだれも見てないと思うが、超たまには。

今日、豊橋の西郊の石巻山を登る。山の上部は石灰石が露頭し、なかなか個性的な風景。
そして頂上。若い女性4人組がいる。こんな低山だが、今どきの山ガールか?
延々と、4人と風景が写りこむような撮影を試みている。表題はそこでうち一人の女の子が放った言葉。
「よっこらしょういち」
うっかりぐるっと振り向いてしまった。私以外にも一人男性(40代か?)がいたが、やはり気にはなるしぐさを見せた。
職場の上司とかが言っていて、クセが移ったんだろうか。でもね、「よっこらしょういち」じゃあ出典からしたらおかしいよ*1

*1:なお、ニコ動の解説によると「らきすた」や「涼宮ハルヒの憂鬱」で登場人物が「よっこいしょういち」と発したことがあるらしい。別に昭和50年代の話ではないのに、なんでやねん。

夏の夜の散歩で見るもの

暑い夏が来ました。外の温度計がこの時間でも摂氏25度を超えています。
さて、私は帰宅後にせめてもの運動で夜の散歩に出るのを日々の楽しみにしているのですが、少し町はずれを歩くと、電灯の下にカブトムシやカナブン、アブハチの類がたくさん集っているのを見るようになりました。今日は一つの電灯にカブトムシが6匹もいるところがありました。
ところで、子供のころから気になっていたのですが、この中には必ず既に「死んでしまっている」虫が混ざっています。カブトムシ・クワガタ・カナブンなど甲虫類に多いです。別に自動車にひかれたような破損もありません。光に寄っていって、そのまま衰弱で息絶えたのでしょうか。私が小学生なら夏休み子ども電話相談室に電話するのだが、それもできず悶々としています。知っている方がいたら教えてくださいませ。
その一方で、自動車にひかれてつぶれている虫も多く目にします。甲虫類はともかく、固い殻を持たないキリギリスの類が潰れるとまことに悲惨な感じです。カブトムシなどが潰れていると、「町のホームセンターでは1匹188円で売ってるのに。もったいない」などとちょっと現金なことも思ったりします。田原市はここしばらく比較的財政力がよいために道の改修工事が多く、それもこういった死を促進している感じがします。
高校の授業を思い出すと、ジャイナ教徒は口にマスクをして、自分の前方を掃きながら歩くことで少しでも生き物を殺さないように努めるそうですが、せめて自動車にも排障器をつけて虫を潰さないようにするとかふと思いました。カルマをむやみに積んじゃってる感じですよね。ま、それは現代文明そのものがそういう性質なのでしょうが。
…あれ、無意味に大きな話になってしまった。

武豊線でタブレット授受を見る

タブレット閉塞方式が見たくなり、愛知県内唯一それを見ることができる武豊線東浦駅と東成岩駅に行ってきました。
いえいえ、最近業務上(?)鉄道に詳しい方に接する機会が多いのですが、私の鉄道マニア度などたかが知れています。今日も「見たくなった」ので、YouTubeで列車の時刻を調べて、コンパクトデジカメを持って行っただけですから。
あ、一応解説しておくと武豊線タブレット閉塞方式をいまさらやっているわけではありません*1武豊線とレールがつながっている貨物専用鉄道である衣浦臨海鉄道の碧南線、半田線がタブレット閉塞を採用しているため、接続駅の東浦駅や東成岩駅で見ることができるのです。
このタブレット閉塞方式は要は「タブレット」を持っている列車のみが定められた区間を走ることができるというわかりやすい安全の守り方。以前は日本中のローカル線で見ることができたのですが、タブレットの受け渡しや管理に人手がちょっと必要なので、自動閉塞方式(要は信号による列車の出入の管理)に置き換わっていったものです。
それはさておき、14時過ぎ東浦駅。ん?駅の待合室に立派な一眼レフをお持ちの男性が。こんな月曜日に「同業者」がいるんだ!すげえな、タブレット。ただ、見たところ20代後半の青年で、服装がカッターにこの暑いのにネクタイで容貌も含めてよくまとまった感じでマニア臭があまりしない。出張の途中とかかな。
14時30分、対象の列車が来るまで6分。ようつべの動画を見ながら撮影ポイントを探ると、青年が声をかけてきた。「タブレットを撮影されるんですよね」「ええ」「でしたら、正面から撮影するといやがる係りの方もいるんで、声をかけておいたほうがよいですよ」
ほお、そういうことをしたことがなかったが、仁義があるわけだ。まもなくタブレット授受をする係の人が駅の事務室から出てくる。私が声をかける間もなく、青年は係の人に「撮影させてもらってもよろしいですか?」と声をかけ、承諾を得る。そして貨物列車が通過、タブレット収受完了。
最近、新聞記事で鉄道マニア(特に撮り鉄)の無法が話題になる。記事を読んでいると、鉄道マニア同士の人間関係が以前ほどなくなり、上の世代から下の世代に引き継がれなくなったものがあるなどというのを見たが、今日見た青年は立派でした。私はビギナーな年長者だが、なるほど勉強させてもらったよ。撮影後に一言お礼を言っておきました。
なお、添付した写真はその東浦駅ではなくその後撮影した東成岩駅のものです。初回はやはりうまくいかんもんで。

*1:武豊線は単線非電化路線。長年並行する名鉄河和線の後塵を拝してきたが、能力の高い気動車キハ75)を回したり、を来年春には全線電化をするなどJR東海はまずまずテコ入れを行っている

自動ごはんよそい機の衝撃

昨日は北陸の某県庁所在地の都市におりました。そして、遅い朝食を食べるべく某大学学生食堂(別に用があって大学にいたわけではないのだが、大学が手ごろな場所にあったので)に行った。
学生食堂はよくあるセルフサービス。そこでカウンターの内側にいるおばちゃんに「ライスM」と頼もうとすると、おばちゃんの返事に曰く「そこにある茶碗をそこの機械の下において、ボタン押して」。
言われたようにやってみると、ごはんが茶碗に向けてぼたぼた落ちる。少し茶碗からこぼれかけた。イメージは注のような感じ*1
ええと、なんだな。すごく気持ち悪い感じ。リンク先のコメントにもあるが、本当においしそうに感じない。コスト減はよいが、これからを担う若者の食欲を削いでおりませんか。ちょっと衝撃でした。

昭和22年に豚を博多から大阪まで輸送する方法について考える

かなり久々で、もはやだれも読んでいないと思うがこそっと。
ゲゲゲの女房』以来仕事の昼休みに朝ドラを観るのが小さな楽しみとなっておりまして、『ごちそうさん』も楽しくみておりました。
さて、観ていた方には表題は最終回のこととわかると思います。主人公のダンナ・悠太郎が博多(近辺)から大阪まで子豚を持って帰るのですが、昭和22年の夏にそんなことが可能なのでしょうか?そこまで調べていませんが、いろいろ考えてみました。まず、当時の輸送手段は間違いなく鉄道。もっとも客車の中には豚はまず持ち込めません。特に当時は石炭が足りないことから列車の本数が極端に少なく、幹線の山陽本線は間違いなく高乗車率。豚など持ち込んだらはじきだされそうです。ただし、手段は二つあります。
家畜車に便乗させてもらう
当時、家畜は農協などが家畜車と呼ばれる家畜専用の貨車をチャーター等で確保し、付添い人をつけて貨物列車で大都市の市場まで輸送するということが行われていました。私の地元は愛知県の郡部ですが、やや後ながら昭和30年前後には東京の市場まで豚を家畜車で出荷していました。
おそらくこの輸送方法が一番可能性が高いでしょう。悠太郎としては、博多駅で大阪方面行の家畜車を見つけ出し、付添い人に金を握らせて自らの子豚の便乗を依頼すればよいのです。この時期にはまだまだゴタゴタしていて管理はゆるいので、たぶんこの程度のことは難しくありません。
問題はこの時期に九州から大阪に豚を出荷するかということと、下に書いたように養豚業がそもそもこの時期どん底なことですが。
イ 鉄道手小荷物扱いとする
昭和61年(1986年)まで国有鉄道、その後国鉄は手小荷物を列車の後方などにある荷物車で輸送するサービスをしていたわけだが、この扱いで運んでしまう。幸い子豚なので、木箱に入れておいてしまえる。もちろん荷物扱い車掌(いわゆるニレチ)を抱き込む必要はある。ただ、輸送時間が10時間以上となるため、暗閉所、しかも激しく揺れる場所で子豚にかかるストレスが相当になることも懸念される。
ウ そもそも日本に豚があまりいなくなっていた問題
http://www.jppa.biz/pdf/1.pdf#search='%E6%98%AD%E5%92%8C20%E5%B9%B4%E4%BB%A3+%E8%B1%9A'
(丹羽太左衛門著『20世紀における日本の豚改良増殖の歩み』日本養豚協会、2001の序論)
上記リンクをたどると、戦後養豚業はいちじるしく衰弱し、昭和21年には88,000頭しかいなくなっていたという。もちろん戦後すぐなので把握されていない数(例えばヤミ)が相当数いただろうが、まさに養豚には冬の時代だった。この時期に豚を確保することができたのかが、いくらコネがあったとしても気にはなる。
こんなとこでしょうか。もう少し検証してみたいですかね。

正しく猫間中納言扱いされた日

壮絶にご無沙汰しております。最近ウェブにアウトプットということをあまりしていなかったのですが、たまには戻ってみます。
さて、昨日は三重県ナローゲージな鉄道に乗ったり、歩いたり、途中の博物館などに寄っておりました。近鉄四日市駅に降り立ったのは午後3時。すげえ腹が減ったと思いつつ飯屋を探すもすでに遅し、多くの店ではランチタイムが終わり、準備中の看板が…。
仕方ないので喫茶店で昼飯を食べようと目に付いた店の扉を開けると、えらくこじゃれた内装と数組の学生カップル。一人で猛烈に腹を空かせた私は明らかな異物。とりあえず四日市名物(らしい)トンテキ定食を頼みました。
待つこと15分。ようやく出てきたが、トンテキも盛り付けもやっぱりこじゃれてて、そしてちょっと少ない。ところが、茶碗に盛りつけられたごはんは、ええっ?と思うくらい山盛り。これは喫茶店の人が私の需要をわかってくれ、せめて気を利かせてくれたんだよなあ。ありがたいと思いつつ、なにやら京都に進駐した木曽義仲が猫間中納言こと藤原光隆(1127-1201)を愚弄して山盛りの飯でもてなしたという故事を思い出させる極端さであった。
もちろん全部食べましたよ。ええ、それはもう。30過ぎて少々食は細くなったが、挑戦?には受けて立たないと。

「知立は都合によりにゃーごやに編入されたでよー」

晩飯食いながら『水戸黄門』を観ていると、「命守った婆さんの知恵・知立」。
中村玉緒がばあさんの役をやっていた。とってもばあさんって感じだなあ。いや、実際にばあさんだからか?
いやいや、そんなことよりあふれる違和感。なぜ三河知立名古屋弁知立三河でも尾張との国堺にあるから名古屋弁の影響を受けているとしても、こんな完全に名古屋の言葉(というにはうさんくさいにおいのする名古屋弁だが)になったりはしない。
いやあ、三河者はこういうのうるさいよ。ただでさえ「名古屋とその他」みたいな扱いを受けてるだけに。その昔、みなもと太郎の歴史マンガ『風雲児たち』を読んでいたら渡辺崋山の絡みで地元田原と渥美半島が出てきて、「おお」と思ったけど、田原の登場人物がみんな名古屋弁しゃべっててへこんだことがあったっけ*1。ああ、三河って印象薄いのね。わしら、名古屋の連中みたいにみゃあみゃあいっとらんぞ!え、名古屋の連中も言ってない?

*1:地味悪い渥美半島の地を「日本のバングラディシュ」とか書いてたのもへこんだが、まあそれは事実なので仕方ない。ちなみにバングラディシュと形容されていたのは、執筆された1980年代後半、バングラディシュは度重なる洪水の惨禍にさらされていたためです。