「30歳」の新年企画は義仲寺で

さて、毎年正月1日(予定が入れば2日)は自分の年齢で死去した人物ゆかりの地を訪ねてお参りするという、人に話すと引かれる企画を毎年行っています。ちなみに28の時は戦国大名浅井長政(1545-73)を訪ねて滋賀県湖北町小谷城跡、29の時は童話作家新美南吉(1913-43)を訪ねて半田市でした。今年は…候補は結構いるのですが*1滋賀県東海道線膳所駅からすぐにある義仲寺に行ってきました。そう、今年は朝日将軍・木曽義仲(1154-84)をお参りしてまいりました。
恥ずかしながら、私は木曽義仲については平家物語レベルでしかわからず、現状の「史的」木曽義仲がどうなのかなど確認もしてこずに恐縮の至りですが、墓所周りで木曽義仲をどう扱っているかから見えてくるものがあるかもしれません。
さて、昼過ぎに18きっぷを乗り継いでJR東海道線膳所駅滋賀県)に到着(前日遅かったせいで完全に出遅れ)。膳所駅からJR石山駅の琵琶湖沿岸をざっくりと歴史的には粟津といい、宇治川の戦い源義経率いる軍勢に敗れた木曽義仲がここまで逃れたもののついに捕捉され、討ち取られた場所と伝わります。灰色な空と氷雨の寒い中を歩いて坂を下り、義仲寺に着きました。まずは本堂も境内も、そして庭もとてもせまくてびっくり。あわせて100坪もなさそう。そして庭中に句碑らしきが林立。松尾芭蕉木曽義仲のことをとても好きだったそうで、死に際して義仲寺に葬るよう遺言してそのとおりにされたため、俳人の聖地となったのでした。芭蕉がなぜ木曽義仲が好きだったのかはネットをっと見た限りではわかりませんが、17世紀後半に芭蕉が「義仲の復興」をしようとしたのは間違いないようです。墓は高さ1メートルくらいで、「木曽義仲の墓」と立札がなければ気付かないほどに個性のないものでした。
そして私の気を引いたのは天保3年(=1832年)の年号がついた漢文の石碑。碑文によると石碑自体を作った人は葦原検校源義長。検校ということは筝曲・鍼灸・あんまあたりの人か?驚いたのは文が幕府の大学頭だった林述斎(1768-1841)、銘が旗本の男谷思孝*2、それに題額が信濃松代藩主で後に老中となって天保の改革の一翼を担った真田幸貫(1791-1852)。なんじゃこの公的なにおいまでしてくる石碑は。受付のおじちゃんに聞いてみると、別に幕府がこの碑を建てたわけではなく、木曽義仲の子孫を自称していた葦原検校が石碑を建てるにあたって要路に動いた結果の人選のようだ、とのこと。
帰ってググってみるとこの人はすぐれた鍼灸師で、現在でも彼の事績が研究されるような人のようです*3。朝廷や幕府の大物にも彼の患者が多くいました。この木曽義仲の子孫を自称している検校さんは、この石碑のほかにも弘化元年(1844年)には下総国旭・木曽氏の墓所がある東漸寺*4木曽義昌の250回忌法要を行い、検校と親交のあった公卿や大名が多く和歌をよせたとのことです。江戸時代後期の石碑の成り立ちをちょっと知るととともに、すごい力を持った検校さんがいたんだなあ、と不思議な感心。なるほどねえ。
なお、碑文の内容は「源平合戦は中国の楚漢の争いに似てませんか。ほらほら、清盛は始皇帝、義仲は項羽、んでもって頼朝は劉邦って感じでさ」ってところで、ちょっと歴史好きなら考えそうなものであまり感興を催すものではありませんでした。

*1:最後まで考えたのは中原中也(1907-37)と管野スガ(1881-1911)だったのですが、中原は山口県だし、菅野も東京なので日帰り困難というのと、近代詩の世界や女の情念の世界(って瀬戸内寂聴の刷り込み?)よりも、まだしも武将の世界のがとっつきやすいというのもありますが、ってよくないなあ。ほかには、2006年の大河ドラマ功名が辻』で武田鉄也が演じた五藤吉兵衛為清(1553-83)なんてのもありましたが、思い入れるほど事績が残っていない…

*2:この男谷の祖父がやはり検校で、裸一貫から鍼灸業で一山当てて御家人株を買った立志伝中の人。そういうことで葦原検校ともつながりがあったんでしょうね。なお、この男谷思孝の子が幕末に剣術で名をなした男谷精一郎(1798-1864)。また、勝海舟(1823-99)は親戚筋にあたる。

*3:例えば、http://ci.nii.ac.jp/naid/110004001895/

*4:木曽義仲の子孫で戦国時代の武将である木曽義昌(1540-95)の開基による寺。ただし大名としての木曽氏は義昌の子、義利の不行状により改易となっている