尾張勝幡城跡の碑文

つい昨日のブログに、「大正から昭和初年にかけてできた戦国武将の石碑の多くは、「朝廷に尽くした」ことを顕彰しているので(尾張勝幡城跡の織田信秀を讃える碑文などは端的ですな)、石碑は同時代的にみると類型的(ただし規模がかなり大きいが)です」と書いておいて、勝幡城跡の碑文を記していませんでした。2年ほど前に行った時現地に行ってメモったものですが、以下のとおりです。碑の表側は「勝幡城跡」となっていて、裏側に碑文があります。なお、後で知ったのですが、石碑は2本ありまして、これは北側にあるものです。

此城東西百十四間、南北百二十間、繞以二重湟其遺址
可推知。織田信定所築也。信定稱弾正忠、岩倉城主織田
敏信之弟。始爲小口城主兼木下城主、永正年間築本城
居之。享禄元年卒。長子信秀嗣家、稱備後守、爲斯波氏三
奉行之一。後至襲今川氏豊那古野城又新築古渡又
末森両城、移之、本城遂廢矣。蓋信秀率先勤皇献金于朝
廷修営宮室。其子信長亦奉密敕專效力於王室能奏揆
乱及正之。功者乃發源此城也。今當大典建碑表之。

大正四年十一月 勲四等竹田千代足*1

寄附者 (9名の氏名*2あり。なお、石碑の近くの家に角田さんや竹田さんがいないか回ってみたけど、なぜかこのあたりの家は表札をどこもだしておらず、確認できませんでした。残念。なお、城西はこの城跡の西側にある小字と同じです)。
(Aboshiによる書き下し)
此の城は東西百十四間、南北百二十間、繞(めぐ)るに二重湟(ほり)を以て其の遺址推して知るべし。織田信定の築く所なり。信定は弾正忠を称し、岩倉城主織田敏信の弟なり。始め小口城主兼木下城主と為り、永正年間に本城を築き、之に居す。享禄元年卒(しゅっ)す。長子信秀家を嗣ぎ、備後守を称し、斯波氏三奉行の一と為る。後今川氏豊を襲って那古野城を取り、又新たに古渡城及び末森両城を築くに至りて之に移り、本城遂に廃せらる。蓋し信秀の率先して勤皇し、朝廷に献金し、宮室を修営す。其の子信長亦た密敕を奉じて専ら王室に效力し、能く揆乱及び之を正すを奏す。功は乃ち此の城を発源とするなり。今大典に当たり、碑を立てて之を表す。

全体に八上城跡の石碑や碑文と比べるとかなり小規模です。碑も小さいし、碑文の文章の熟語にこったものはないし、寄付者は地元の人をちょっと集めた程度な感じだし。なお、この碑文は現在の史学からいえば半分くらい間違ったことが書いてあるので、内容を信用してはいけません。
碑を作ったきっかけは大正の即位の大典だし(奇しくも波多野秀治・宗高が従三位を追贈されたときと同じくしています)、文面は織田信秀・信長親子の朝廷に対する功績を強調することで「碑を作る理由」をひねり出したのではとすら感じてしまいます。価値判断の基準が、往古方今どのことを語るにせよ天皇が中心になっている時代ということを感じずにはいられません。なお、織田信秀明治38年従三位を、信長は大正6年正一位を追贈されています。

*1:未確認ながら、ネットで確認すると明治37年4月の衆議院議員選挙で立憲政友会所属で愛知県郡部から出馬し、2,719票を獲得して見事トップ当選を果たしている

*2:このうち角田姓が3名、竹田姓が2名、伊藤姓が2名、あと杉本、城西が一人づつ。また、竹田姓の二人は竹田千代足と村長(碑の場所からいって中島郡平和村長か?)の竹田寿三郎