コンクリ兵士像が渥美半島にもあった!

伊良湖村兵士像

正月明けのブログ*1で紹介したことの続きです。
日中戦争の初期・上海攻略戦で名古屋の歩兵第六連隊に連隊長含めて数百人の戦死者が出た。目的は不明ながら、まず部下が連隊長のコンクリ兵士像を作り、さらに兵士の遺族らが1mくらいのコンクリ兵士像を建て増して、名古屋・覚王山に兵士像の集合地(通称・軍人墓地)ができた。作成者は昭和の初めから中期にかけて人物コンクリ像を東海地方の各地に残した浅野祥雲(1891-1978)。その後覚王山の軍人墓地は平成になってからすったもんだして今は南知多町・中之院に移っている…と。
長い復習失礼。さて今日、父を宴会に車で送った帰り、ちょっと寄り道して伊良湖神社(田原市伊良湖町)に寄ってみると、神社の入口わきに、おおお、こりゃ兵士像じゃないか!しかも台座付きの完全形で!
兵士像はちょっと高い所に、村の顕彰碑などと一緒に立っていました。ちょっと手入れしてないようで、草むらの中にあります。まずは像に一拝し、小雨のぱらつくなか、服を濡らしながら近寄ると、確かに軍人墓地の像と感じが近い。これは同系統だな、と台座の読むと大当たり。兵士像の方は上海攻略線で戦死していました。
碑文を読むと、亡くなった方は当時の伊良湖村出身で大正4年(1915年)生まれ。西尾*2の養蚕の学校を卒業し、岡崎の養蚕の会社に就職したものの20歳で応召。名古屋の師団に所属し、満州などに駐屯したのちに日中戦争が勃発して従軍。そして昭和12年(1937年)9月に上海で戦死ということでした。碑文を見ると墓の建立者も明確になっていて、どうやら西尾の養蚕の学校と岡崎の養蚕の会社の従業員がお金を出し合ったようです。碑文には遺族の名前も記されていましたが、この兵士像の建立にはあまり関与していなさそうです。墓誌に当たる部分は連隊長が書いていましたが*3、文章に誤りも多く、ちょっと拙い出来になってる感じが。さして読み込んでないので、失礼があったらすいません。
なお、この兵士像が伊良湖村に置かれたのは、応召は岡崎に住んでいたので名古屋だったが、彼は渥美出身だからということかな。
いやいや、しつこく覚えてたおかげで思わぬ成果が。ちなみには台座の正面には「忠烈」と大きく刻まれ、「松井大将書」ともある。まあ時の司令官松井石根(1878-1948)だろうけど、他の戦死者の碑なんかの使いまわしかなあとも思いつつ。松井石根は引退後熱海の伊豆山に「興亜観音」を建てて日中戦争の戦死者を弔ったそうだが、これもその一環ともいえるのかな。

*1:http://d.hatena.ne.jp/Genza_Aboshi/20080105

*2:現在の愛知県西尾市

*3:覚王山墓地の連隊長は戦死しているので、別人でしょう