高層マンションの建設と史跡保存(1)

11月4日(日)、仕事からの帰宅後に中日新聞を見ると、一面に岡崎城*1の石垣発掘との記事*2。現在残る岡崎城の遺構の多くの部分は、最近の説では16世紀末に岡崎に入封した田中吉政*3によるものと考えられているが、今回その一部が出土したとのこと。記事によると、石垣は6メートルの高さで30メートル以上続き*4、それももとは湿地帯で軟弱地盤であることから石垣を二段組にして犬走りを作っているといった工夫の面白さや、発掘地は本丸などの遺構から400メートルも離れたところということで、岡崎城の規模の大きさがうかがえるとのこと。
「おお」と思いながら読んだが、ちょっとひっかかるところが。この発掘、高層マンション建設に伴う緊急調査じゃないか。しかも史跡指定されていない区域*5ということは、調査後は出土した石垣を破壊してしまうということか。高層建築は基礎を地下に深く作る必要から、しばしばこうして遺構の破壊につながってしまいます。
あな、惜しや。いてもたってもいられなくなり、5日(月)、岡崎まで行ってきました*6。現場は自由な見学が許されており、平日にもかかわらずおじさんおばさんが入れ替わり立ち代りのぞいていました。現地の人の関心の高さをうかがいながら発掘現場を見ると、黒い泥を野面積みの石垣ががんばって固めているような感じで、設計者の苦心をうかがわせました。すでに一部の石垣は崩され、石が脇に固めてありました。ちょうど私があちこちのぞいていた時、私の近くにいたおばちゃんが声をかけてきて、「もったいないねえ」と。あいのてをうつと、「ほら、あそこの石垣の向こうは400年前の道だそうじゃない。そこを当時人が歩いていたってだけで、うれしくなったりしない?」
なるほど。しばらくそのおばちゃんとあれやこれや話しましたが、普通の方*7が歴史への想像力をかきたてられる空間が、日常的なスペースの中にあったら確かにいいですよね。ちなみに、地層の表層のすぐ下に黒い土が30cmくらい積っていたそうで、それは昭和20年7月の岡崎空襲の燃えた跡だそうです。
30分くらい発掘現場を見て、ちょっと周囲を歩いてみました。というのは、さっきも書いたとおり周辺はまるごと岡崎城の跡地で、文化財包蔵地*8岡崎市が意識してるのなら、土木・建築に少しは配慮させてるのかなあ、と。ええと、てんでだめでした。近くでは別に高層マンションの建設は進み、地下駐車場も作られてました。広域な、しかも城下町という点も視野に入れた史跡整備計画はあるようですが*9、今まではあまり配慮してなかったみたいですね。今回の件も、文化財包蔵地に高層建築を建てさせないというしばりがあれば、地下の遺構を埋めたまま残しておき、将来(この際10年後か100年後かは問わない。残ることが重要なのだ)の史跡整備の可能性もあったのになあ。
(つづく)

*1:現在の愛知県岡崎市の中心部にあった城。平城。徳川家康の生まれた城であり、浜松に移るまで家康はここを本拠にした。16世紀後半までの岡崎城周辺は川と湿地に囲まれており、平城ながら岡崎城はなかなかに攻めづらい城だった。とはいえ、家康は山中城岡崎市舞木町)などの山城を詰めの城として確保はしていたのですが

*2:http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2007110402061658.html

*3:1548-1609。近江国浅井郡滋賀県虎姫町あたりか?)の土豪の出自。秀吉に引き立てられて豊臣大名のひとりとなるが、その転封の過程で拠点とした城郭や城下町の設計で今日では評価が高い。例えば近江八幡筑後柳川が現在観光地たりえているのは彼のおかげの部分が大きいでしょうな

*4:今回の発掘の範囲が狭いためにどこまで続いているかはわからないが、本丸周辺も石で固めていることから城の外周をぐるっと石垣が取り巻いているとの想像は可能

*5:岡崎城跡」は市の史跡として指定されているが、その指定区域は現在岡崎公園として整備されている本丸周辺に限られている。しかし、本丸周辺の石垣や曲輪は結構しぶめに残っていて、由緒もある城跡なのに、国や県の史跡指定は受けてないんですね。

*6:別に仕事をさぼったわけではなく、その日休みだったからです。発掘現場でも疑われてしまったので念のため

*7:私のように歴史マニアではない、という意味で

*8:行政用語。厳密には「周知の埋蔵文化財包蔵地」。文化財保護法に基づき、自治体が地下等に遺跡や遺物の存在が認められる区域をあらかじめ指定しており、この区域で土木、建築工事を行う際には自治体に届け出る義務がある

*9:http://www.city.okazaki.aichi.jp/yakusho/ka6560/ka400.htm