コーエーさんよ、それはいかん・・・

三国志11 武将ファイル』の転載問題を。ちょうど私も年度末でばたついていて各記事をローラーで確認ができないので、前回の日記に書いたように自分が比較的関与した陳羣*1鍾繇*2などを見ながら「ああ、ちょっと表現変えたりしてるだけだなあ」とためいきをつきつつ、著作権とまでいくと法に弱い私には判断がつきかねていました。ところが、決め手がありましたよ。
辛毗(しんぴ)。字は佐治*3ウィキペディアにおける『三国志11 武将ファイル』発行前の版(2005年5月25日)は以下の通りです。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%BE%9B%E3%83%94&diff=2562556&oldid=2349511
三国志11 武将ファイル』はおそらく字数の都合でちょっとこれを要約して後半をカットするような作りになってますが、問題はウィキペディアの文では全体の半ばにあるこのセンテンス。
「正史*4では、辛毗の家族は皆殺しにはなっていない様である。その娘の辛憲英の生年は191年であり、計算が合わない」
三国志11 武将ファイル』は同じ内容ながらちょっと表現が違って「しかし、その娘の辛憲英*5の生没年からみると、辛毗の家族はそのとき皆殺しになってはいないという説もある」
結論を申し上げると、どちらも間違ったことを書いてます。『三国志』魏書・袁紹伝の注『先賢行状』にはこの事件の起こる以前に「(袁)譚の去るや、皆呼びて辛毗、郭図の家は出ずるを得、辛評の家独り収せらる(袁譚が去ると、その部下は家族を呼び寄せ、辛毗と郭図の家族は脱出することができたが、辛評*6の家族だけ収容されてしまった)」とあり、辛毗の家族はその後の皆殺しの場にはいなかった旨が書かれています。『後漢書』など他の資料にはこの事件について『三国志』より詳しい記載がないので、これ以上の検証はできません。とすれば、娘の辛憲英が生存ということからも辛毗の家族は皆殺しにあわなかったと考えるのが妥当でしょう。『三国志11 武将ファイル』は、ウィキペディアの誤った内容を引き写して同じ穴に落ちたばかりか、ありもしない「説がある」などと恥の上塗りをやらかしたわけです。
さて、コーエーさん。ウィキペディアGFDLの説明をお読みになってください*7。商用転用は認められていますが、出典を明記するのが最低限のルールであり、著作権に反することになりますね。社員のどなたかが気づいたらで結構ですので、これに関するご意見を賜りたく思います。

*1:?-238年。三国・魏の政治家。九品官人法の制定で知られる。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E7%BE%A3。ただし、現在の版はその後の加筆を経ているので内容が変化している

*2:151-230年、同じく三国・魏の政治家。書の大家としても名高い人。http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%8D%BE%E3%83%A8%E3%82%A6&diff=11079994&oldid=10788202

*3:生没年不詳。袁紹配下から転じて曹操に仕え、魏の高官となる。

*4:日記作者注、ここでの正史とは陳寿編『三国志』のこと

*5:191-269。『三国志』魏書・辛毗伝中の注『世語』に事跡及び没年、没時の年齢の記載がある

*6:?-204、辛毗の兄

*7:http://ja.wikipedia.org/wiki/GNU_Free_Documentation_License