津軽浪岡城跡にて

4日間ほど津軽の旅に出ておりました。本日は最終日をしめくくるべく、浪岡城跡*1に行ってまいりました。
朝9時20分、浪岡駅着。それから2キロほど浪岡川に沿って東に歩き、青森市立(合併前の浪岡町による設立)の資料館「中世の館」で展示を見ました。さらに5分ほど歩いて目的地到着。ところが時間がない上に道を誤って遺構のない浪岡川の東岸に行ってしまい、見る時間が減ってしまいました(泣)。相変わらず地図が読めない私だが、周りにそれを示す看板などがほとんどないし、その上遺構のある部分もない部分も緑地公園化されているので遺構の位置の把握がしずらい。後で気づくと一応案内所はあるが、広い建物におばちゃん一人ぽつーんと座っていてちょっと声かけづらかった。
やっとのことで道を折り返して城館跡を歩いた。城跡は曲輪の形状・土塁・堀(浪岡川を引き込んだ水堀)・木橋などの形状をを復元していました。うわもの(上部建築物)はなし。土塁・曲輪とも芝生状となっていて、この復元事業が緑地公園化事業でもあったのを物語っていました。この芝生という作戦は伊豆山中城などでも取られている手で、根っこによって土が固めやすいという効果も見込めます。もっとも、往時は敵が城をよじ登る手がかりになってしまうので土がむき出しです*2。また、一部板や柵等で建築物があった場所をしめそうとしていました。
ただし、長期的な遺跡の保守管理がなされているかといえば、ちょっとううん…という感じでした。やや草ぼうぼうでしたし、史跡を破壊しない範囲でもっと案内板をつけてもいいでしょう。平地上の城館なので、こちらも山城よりも全体図がイメージしにくいというのは確かにありますしね。
まあともあれ、同じく緑地公園化した伊豆山中城とまた比べてしまうと、史跡として曲輪や堀が区画として保存されているのはさすがとはいえ、緑地公園化も管理もやや徹底を欠く感じでした。もちろん山中城は東京から新幹線で1時間足らずで最寄の三島駅に着いてしまい、近場に他にも箱根・東海道等の大型観光地を抱えています。それに比べれば浪岡はたしかに青森の片隅。同じ貴重な中世の遺構でも呼べる客のパイが絶対的に少ないです。苦しいと思います。
でも、もう少し、来た人に「見せる」努力をしてみてはと思わずにはいられませんでした。たしかに「中世の館」に解説がありますが、もう少し実地でご案内できるものがほしいです。浪岡は去る2005年4月に吸収合併されて青森市の一部になってしまいましたが、むしろゆえに、もっとアピールするものがあればと思わずにはいられませんね。

(ちょっと余談)しかし、こうして他の中世城館系の大型史跡と比べると、伊豆山中城跡は「完成度」の高い史跡公園化をしていると改めて思い知らされます。曲輪・堀などの遺構の形状を出来るだけ残し、かつ視覚的に邪魔にならない程度に案内板があって来た人の理解の一助となっています。また、花や草木で飾り立てて美しく緑地公園としていることに成功しています。さらに、山城であることから適度なハイキングゾーンとなり、見晴らしもなかなかなもの。もちろんこれらの施策の方向性は背反するもので矛盾は確かに発生しています。史跡をわかりにくくしている部分も素人の私が見ても確かにあります。しかし、山中城跡は城跡を「こうする」という目標をしっかり立てて、実行しているという点でまことに見事であるなと、他の史跡を見て改めて思いました。

なお、浪岡城址訪問に当たっては、石井進監修・中世のシンポジウム実行委員会編『北の中世 史跡整備と歴史研究』(1992年、日本エディタースクール出版会刊)が現在残る復元事業がどういった経過で行われたか参考になるようなので事前にご一読をお薦めします。そういう私がこの本の存在を知ったのは浪岡訪問後で、まだ読んでもいないのだが…馬鹿丸出し(恥)

なお、私の訪問時間は12:11浪岡発青森行の普通電車に乗り込んだために、わずかなものでした。これもあまりに遠い三河にその日じゅうに「電車で」*3帰らにゃならんためで…無念!

*1:室町時代から戦国時代にかけて津軽に勢力を持った浪岡北畠氏が本拠とした城館。現在の青森市浪岡大字浪岡に所在。しかしこの地名ってどないやねん。いつの間に大字より上、市町村より下の地名概念が発生してしまったのでしょうか?ちょっと驚き

*2:例えば、ローム層上に立地する山中城などは足を踏み入れると足がずぼずぼ埋まっていき、坂をよじのぼろうとするにも難渋するし、上からは鉄砲のいい的ですよね

*3:青森空港からセントレアへは一日二便、それも昼ひなかと夜遅くしかないってどないやねん