自死した彼の思いの行方は

8月21日未明、名古屋市守山区の郊外で一人の中学3年生男子が焼身自殺した *1 。事前に名古屋の市街地にある自宅から灯油ビンを持ち出し、深夜、やや離れた郊外で自らを焼いたという。
彼はアトピー性皮膚炎を患っていた(軽度か重度かは不明)。昨年秋、同級生からそのことをからかわれ、バッグを引っ張られたり道をふさがれたりしたそうだ(新聞記事より)。母親が学校に相談して発覚、同級生7人(!)がいじめを認めたそうだ。学校によると同級生が生徒に謝罪し、いじめは止まったとする。産経ニュース*2によると、生徒はこれに対して「何もありません」と気丈に答え、その後教師や両親などが注意を払い続けていたとのこと。
以上がマスコミ等の記事に見るこの事件の概要である。真実がどうなのかはこれではほとんどわからないが、深夜・ひと気のない郊外で、大変に苦痛を伴う焼身自殺という、どうにも孤独かつ無惨な光景に、底抜けに黒い闇を感じた。一方で彼と同じ病気を患い、中学・高校時代によくない思い出も持つ者として、勝手な想像は許されないとは思いつつ、彼への悲しみ、あわれみとともに、何かに負けたようなどうにもならない悔しさもこみあげてきた。この話を初めてニュースで聞いたときは一人で車を運転していたが、泣いてしまった。
彼の冥福を祈りたかった。そして、死の現場に行くことで彼の思いが少しでもわからないかと、8月31日夕方、焼身自殺の現場に行った。名古屋駅から地下鉄、バスを乗り継いで約1時間。人家と田畑が入り混じった郊外の小丘陵に、公設・私設の研究・研修施設がやや無機質に立ち並んでいるような場所だった。深夜は照明も少なく、人通りも少なそうだ。生徒は繁華街近くの中学に通っていたので、いっそうそう感じたことだろう。歩いていると、歩道脇に花束や中身の入ったジュースなどのペットボトルが供えられた場所があった。その前のアスファルトは塗りなおされている。持ってきた線香に火をつけようとしたが、台風の影響で風が強いうえに、なぜかライターに火がつかない。いや、彼が火に関わりのあるものをいやがっているかもしれないと思い、線香はやめた。
夕刻なので、現場でおがんでいる私を遠巻きに見る散歩っぽい中年や老人の男性・女性が何人かいた。生徒はこの地とはおそらく関わりがない*3。周辺の人たちは、この事件をどう感じているのだろう。
帰りがけ、ごく近くのバス停から彼が住んでいた名古屋の市街地までバスが出ていることに気がついた(私はそのことを知らず、行きは違う経路を用いた)。彼が住んでいた市街地から見ると、このバス停は数十分乗ったのちのほぼ終点にあたる。
結局、現地に行ったところで彼の死への思いはほとんどわからなかった。もちろん、私は多少の同情や共感を持とうとも他人であり、知ろうとすること自体が本来おこがましいのかもしれない。ただ、なんとなく彼が不特定多数に何かの思いを残そうとしていなかったかと期待したのだが、空振った。
しかし一方で特定のだれかに残したかといえば、報道等によれば(9/5まで)遺書はなかったという。もし本当に遺書がなかったとすれば、彼と直接かかわった両親や級友、学校の教師には彼の死はどう伝わり、どう感じているのだろう。
それとも、彼は誰にも思いを残したくなかったのか。自らの思いを抑え込んだまま死んだのか。そんな孤独なことがあるのか。いや、このできごとは少なくとも赤の他人である私の感情を動かし、現地に向かわせただけの力があったのだ。前出の産経ニュースは、若い世代が自分の思いを伝える能力が急速に低下していると指摘しているが(私自身もそういうところが多分にあるが)、この死は、不器用な彼の決死の叫びだったのか?
もしかしたら、無言で壮絶に死んでいくこと自体が復讐だったのか。彼をいじめた連中は、このできごとを一生心の重荷とするだろうし、見えてこない彼の思いを一層恐しく感じることだろう。ご遺族に無礼を承知で書くが、せめてそのほうが救いだ。
正直なところわからない。にわかにでかいことをいうと、恐れおののくほどの孤独な世の中ということなのか。

*1:http://www.jiji.com/jc/zc?k=200908/2009082400265時事通信、8/24)

*2:http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090905/crm0909052046022-n1.htm、9月5日

*3:転居等の事情が分からないのでなんともいえないが