多度大社と一目連の神

多度大社の別宮・一目連神社

初詣に、やや遠出して伊勢桑名の多度大社に行ってきました。というのも、『和漢三才図会』の以下の文章で「一目連」というのどうも気になりまして。

(元は和漢文。以下は例によってAboshiによる書き下しですので品質は保証しません。気になる方は国会図書館アーカイブをご覧ください。なお、ネット上でも『和漢三才図会』の諸刊本が見られるようですが、誤字の多いものもあるので読む前にご注意せられたし)

『和漢三才図会』巻3「天部」より
颶 うみのおおかぜ

石尤風○海中の大風なり
『南越志』に云う「颶は四方の風を具うなり。常に五・六月を以て発し、未だ至らざる時雞犬之の為に鳴かず」と。『嶺表録』に云う「秋夏の間に暈 虹の如き有り。之を颶母と謂う」と。蘇子瞻*1云う「断霓(にじ)海を飲み、北に赤雲を指し、日を夾(たばさ)みて以て南に翅(ひろ)ぐ。此れ颶の漸(きざし)なり。其の風発(おこ)れば輙(すなわ)ち樹を抜き、瓦を掀(あ)げ、舟楫(しゅうしゅう、舟のかじ) 漂蕩す」と。

△按ずるに、勢州・尾州・濃州・騨州に不時の暴風の至る有り、之を「一目連」と俗称し、以為うに神風なり。其の吹くや、木を抜き、巌を仆し、屋を壊ち、破裂せざる者無けれども、惟だ一路(ひとすじ)のみにして、他の所を傷つけず。勢州桑名郡多度山に一目連の祠有り。相州に之を鎌風と謂い、駿州に之を悪禅師の風と謂う。相い伝えて云うに「其の神形は人の褐色の袴を着るが如し」と云云。
蝦夷松前に臘月*2厳寒、而も晴天に凶風有り。行人にして之に逢う者、卒然にして倒仆す。其の頭面或いは手足五六寸許(ばかり)創を被る。俗に之を鎌閉太知(かまいたち)と謂う。然るに死に至る者無く、急ぎ莱菔(らいふく、大根)の汁を用い之に伝えれば即ち癒え、痕 金瘡の如きなり。津軽の地にも亦た間(ま)ま之有り。葢(=蓋)し極寒の陰毒なり。<此れと一目連似て同じならざるも、皆悪気風なり>

『和漢三才図会』はいわゆる類書で、文字通り和漢のさまざまな文物(オカルトあり)を引用しまくって作成した本ですが、ここでいう一目連って竜巻?(中国側の『南越志』*3や蘇軾の逸話は中国の華中・華南で陰暦5・6月となれば台風でしょうか)。竜巻を神様としてあがめるとはおもろそうですよね。
さて、現場。桑名から養老鉄道で数駅北へ上り、多度で下車して徒歩30分。すでに1月4日なこともあって、人は想像よりも少なかったですが、サイクリングで訪問している人が多いのが特色でしょうか。チャリンコの神とかいるのかな。神社の鳥居をくぐって、上げ馬神事*4に使う急勾配の石段を上ると広場があったが、それをさらに上ったところに本殿があった。見かけはそんなにいかめしい本殿ではないが、奥行きの深さと、石積みに心ひかれるものがあったが、残念ながら連れがいたのでまじまじと観察するのは断念。さて、一目連様はどこにいるのかな、と思ったら本殿のすぐ脇にありました。おお、なかなか扱いがいい。小さな社殿には「一目連の神」とだけあって詳しい説明はありませんでしたが、さすがは竜巻の神?
家に帰って多度大社のホームページ*5を見ると、一目連神社の祭神は天目一箇神といい、御本宮・天津彦根命の子神であり、伊勢の天照大御神の孫神にあたり、天候を司っているそうな。あれ、荒ぶる風の悪気風なんじゃないの?まあ巷間伝わるうちにいろいろと変化はするだろうが、ちょっと違う記述にちょっととまどいました。日本の神様のことなんて、まったくわからんなあ。さらに後で気がついたことながら、神社で除災のお札を買ったのだが、お札は多度大社と一目連神社が同格で並列に記されてる。この扱いの良さは、もっといわれがあるのではないかと想像させるものがある。

*1:北宋の政治家・書家・詩人の蘇軾(1036-1101)のこと。子瞻は蘇軾の字。政争によって中国の南方に幾度も左遷されたり追放されたりしたが、その先で「赤壁賦」に代表されるような優れた文学作品を残した。

*2:陰暦12月の別称

*3:中国の南北朝時代の沈懐遠撰。約1500年前の何でも風物本(語弊あるかしら)。

*4:五月初旬、地元の少年が馬に乗って急勾配をを駆け上がるというもので、東海地方ではまずまず有名で毎年ニュースになる。騎手に与えられた練習期間はわずか一週間というなかなかハードな行事。

*5:http://www.tadotaisya.or.jp/gosaijin/itimokuren.html