『センゴク』講演会 in 近江長浜

(史料代わりということでメモ状態のままにしておきます)

23日から越前に二日ほど出ていたのですが、帰りは長浜によって、講演会に行ってまいりました。講演者はヤンマガ連載中の『センゴク』作者の宮下英樹氏に、滋賀県内の歴史研究家おふたり*1。テーマは「リアルセンゴク 戦国合戦の真実と虚構を探る」*2

2時間半に及ぶ講演でしたが、講演は全体として宮下氏に太田氏と中井氏が城郭を中心とした歴史をレクチャーしているような感じでした。実際に太田氏と宮下氏が知り合ったのも宮下氏が太田氏に元亀元年の北近江における一連の戦闘*3を取材したことから始まったそうです。また、司会の太田氏がいつもの講演会と勝手の違う漫画家相手にどう話を引き出そうか苦心惨憺されているのも面白かったです(って人悪いな、私)。宮下氏も問いかけに「そうですね」で話を終わらせれしまうことが多かったですが、後半になるとやや話すようになって来ました。以下、箇条書きにちょっと頭に残ったことを書き留めてみました(以下は敬称略)。
(なぜ戦国ものとなったか)宮下「自分の興味関心のあるテーマであり、担当編集者も興味があった時代だったので決めた。初めは古代・ヤマトタケルを主題にしようと思ったが編集者に却下された)
(なぜ仙石が主役になったか)宮下「司馬遼太郎の小説『夏草の賦*4』の仙石の描きようがあまりにひどかったことも背景にある」中井「司馬の小説は史料を盛り込みながらも虚実まぜこぜとなっていて、非常に誤解しやすいので、自分は特に司馬の戦国ものは読まないようにしている。ただし、フィクションとはっきりわかるマンガは好き。『センゴク』以外に好きな戦国ものは山田芳裕へうげもの』、岩明均『雪の峠・剣の舞』、本宮ひろし『猛き黄金の国−道三』と原哲夫花の慶次』」
(仙石権兵衛で何を主題としていくか)宮下「若いころは愛嬌だけで愛されることがあっても、歳をとっていけばそんなことはない。仙石権兵衛は30代半ばで大きな失態を犯し*5たが数万石の大名に復帰し、二代将軍秀忠などから信頼された。その理由を書いていきたい」
(仙石というあまり史料の残っていない題材を選ぶことについて)宮下「史料が残っていないということは、自由度が高まるということ。仙石及び架空のキャラクターらをとおして、「戦国時代はいったい何が起きうるか」ということを表現したい」
(マンガで歴史を描くとは)宮下「文章として乾いた叙述となる小説と異なり、マンガだと熱いヒーローものに描くことができる。現内容は編集者との打ち合わせに基づいて作成しているが、編集者(三宅氏)が歴史に詳しく、『信長公記』などの文言をマンガの中に書き込むなど知らないうちに原稿に手を入れられて自分も知らないような理屈の部分が強化されている」太田「歴史学ができないことをマンガがやっている。史料に沿っただけでは人物の性格などはなかなかわかるものではない。うらやましさがある」
(『センゴク』と史料について)宮下「一兵卒から見た『信長公記*6』を書いている」
(『センゴク』が好きになった理由)中井「地元民でも知らないような堀秀村・樋口直房*7などが登場する。また、大河ドラマなどでもその他大勢に扱われるような磯野員昌などの人物でもきちんと個性のある造形やキャラクター作りがされていたこと」
(「フィクサーお市」という作中キャラクターについて)宮下「よく悲劇の女性として描かれるお市だが、淀殿の母なわけだし、もっと強い人物として浅井長政を逆に動かすような人物として描きたかった。お市淀殿―落合夫人のイメージ」
(ゴンベエの離れ離れの恋人にして、架空のキャラクター・お蝶について)宮下「主人公の行動する動機付けとしての存在」
明智光秀の風貌について)宮下「信長の風貌、キャラクターを強く設定しておいて、肖像画の顔に縦線が入っているようなよわよわしい光秀では信長が殺せそうもない。悪魔のような信長を殺す男はやはり悪魔のような風貌でなきゃダメ」
斎藤龍興のキャラクター及び風貌について)宮下「将軍・足利義昭の代わり。風貌のモデルは担当編集者の三宅氏。講演会場の後ろにいらしたが、太田氏に紹介されたときに聴衆全員が一斉に振り向いたために、顔を赤らめていた)
顕如のキャラクターについて)中井「多くの民衆を一揆に向かわしめた顕如のキャラクターづけとしては大阪弁をしゃべるくだけた描写は大変面白い。池上遼一の『信長』の顕如も面白かったが、行儀はよかった」宮下「モデルはミック・ジャガー」)
(通称・受領名*8を必ずキャラクターの名前を載せるときにつけた理由)宮下「かっこいいから。受領名・通称は編集者が調べてくれている)

*1:長浜市歴史博物館の太田氏と米原市教育委員会の課長で城郭研究家の中井均氏

*2:http://www.city.nagahama.shiga.jp/section/rekihaku/news/info66/ 長浜市歴史博物館による企画。長浜市が一年近くやってきた「一豊・千代サミット」の一環だそうな

*3:姉川の戦いを代表とする織田氏と浅井氏によるもろもろの合戦。なお、『センゴク』における姉川の戦いの描写は太田氏説に基づくものだそうです。歴史家冥利に尽きますね、太田さん

*4:昭和43年、文芸春秋で発表。長宗我部元親を主人公としているが、彼の人生をまさに叩き潰した敵役として仙石秀久が登場する。ただしライバルとしてではなく、とにかく無知倣岸、かつ無能、最低な人物として描写される

*5:天正15年(1587年)、九州攻めで長宗我部・十河混成軍の軍監だった権兵衛は秀吉の「援軍到来まで固守」の指示に逆らって出戦、戸次川の戦いで大敗した上さらに軍勢を置き捨てて単身四国まで逃亡した。このため秀吉の怒りを買って高野山に追放された

*6:信長配下の中級将校・太田牛一による信長の一代記。信長のそば近くにいた人物の記録であり、できごとを脚色せずに記しているため資料的価値が極めて高い

*7:堀秀村は近江坂田郡(現在の米原市から長浜市あたり)の有力土豪であり、樋口はその重臣。浅井氏に服属していたが、木下秀吉の調略によって織田方に寝返って同軍勢を北近江に引き込んだために姉川の戦いの一因となった。中井氏は堀氏の居城である鎌刃城跡(米原市・国指定史跡)の研究に長年携わっていたこともあり、堀・樋口には思い入れが深いんでしょう

*8:木下「藤吉郎」秀吉、織田「弾正忠」信長のこと。当時人を呼んだり文書に記したりするときは「秀吉」ではなく「藤吉郎」を使う