肥前有馬で城跡破壊!

表題のネタは肥前高来郡は有馬(長崎県南島原市)の日野江城のお話。昭和50年代の調査で特筆すべき遺跡であるとして国史跡に指定(昭和57=1982年)された城跡です。これを平成17年9月、当時の北有馬町が桜の植樹の委託をした業者が城跡に重機を入れ、石垣*1を崩し、曲輪に工事用道路を引いたそうな。文化庁はあまりのことに怒り、当時の北有馬町長相手を告発!でも、こういうときはあくまで町長が告発対象なのね。なるほど、地方公共団体の長がどうリスクを負うかということについて勉強になりました。

まあ後世に残る恥話ではあるが、本件は国指定の史跡だからこれだけ問題化されるわけで、市町村レベルの指定史跡は道路だのマンションだの老人ホーム*2を造ると言えば発掘調査をひとしきりやればあとはさよならなので、まあこうして取りざたされただけマシといえばマシなのかしら。

ともあれ、南島原市がこれからどうリカバーするか興味のあるところですね。日本中の城郭愛好家の目が今注がれているのを南島原市文化財課の皆様は戦慄しつつ原状回復に当たってくださいね。考え方によってはお国より城マニアのがこわいかもよw

どうぶちこわしたか見に行きたいなあ。今年中くらいならこわしっぷりがよくわかるだろうし。で、ウィキペディアに「破壊跡」として画像をアップw(南島原市の方に泣いて抗議されそうだが)。しかし三河から肥前のそれも交通の不便なとこでは行くだけで大変だなあ。

(参考)http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/nagasaki/minami/20060702/20060702_003.shtml西日本新聞 7月2日)

(詳しく)平成17年9月、合併を直前に控えた北有馬町が9月補正予算で600万円を捻出、その資金でボランティア団体に日野江城跡に桜の植樹事業を委託した。最近多かった合併前の駆け込み公共事業ですな。ボランティア団体が事業者に選定されたのは、少しでもコストを削減するためで、作業内容もボランティア団体にほとんど委ねられていた。そして、恐れを知らないボランティア団体は11月からの工事で曲輪跡の中に作業用の道路を作り、さらにパワーショベルで周囲の樹木をなぎ払った。この過程で本丸を中心とした石垣が崩壊したと考えられている。

今回の問題は非常に多くの原因が考えられるが、まずは担当課と担当職員の問題。

  1. 設計図書はちゃんと作りましょうね。
  2. 検査員(=担当職員)はときどきは現場に行きましょうね。
  3. 文化財なんだから、教育委員会に相談しましょうね。

以上も含めて、今回の問題をさらにまずいことにしちゃったのが、日ごろ発生する力関係による業務の緊張が発生しなかったこと。すなわち、国→地方自治体→委託業者の関係。普通の委託業者なら請負先かつ完了検査を行う地方自治体に向けてまずい仕事は少なくとも表向きはできないし、地方自治体の職員は国が絡めば動物的に細心の注意を払うもの。ところが、ボランティア団体ということで恐らく市や市の職員となあなあな関係が発生し、さらに担当職員と担当課はおそらく教育委員会にも相談をしていないところからみると、「史跡にも国が絡んでくることがある」ということにあまり意識がいってなかったんでしょう。かくて、惨劇の条件がそろったわけですな。
この問題に際して、当時の北有馬町長は自身の一ヶ月減給、また臨時の突貫工事を1ヶ月で行い、城跡に応急処置を施した(この経費に700万円)。そのまま18年3月の広域市町村合併でさようならといかせたかったが、城跡の修復経費は4億とも5億ともいわれ、また日野江城跡の発掘委員を25年にもわたってで勤めてきた長崎大学の外山名誉教授は腹を立てて辞任、そして文化庁は当時の北有馬町長を告発したというオチでした。
今回はこんな悲惨に終わったけど、史跡保護を目指す教育委員会と市民の憩いのスペースや快適な都市空間の一部としようとする公園緑地課・都市計画課(自治体によって名称は違うが、ここは四捨五入で)とのバランスとは難しいものです(実際の構図はこんな簡単なものではないが、あえて簡単に)。そのコラボレーションの一つの完成形が伊豆山中城静岡県三島市)ではあるのですが、まだ私もこの分野は考え始めたばかりで、とても踏み込めてません。

*1:キリシタン大名有馬氏だけあって西洋の様式を取り入れており、国指定史跡の大きな理由となったもの

*2:町外れの丘陵や低山にある寺社跡や城跡が多い関係か、老人ホームに潰された例は結構多いのよ、これが