遠州水窪にて

豊橋からワイドビュー伊那路号に乗り込み、遠州水窪ミサクボ(現浜松市水窪町)まで行ってきました。水窪は山深い中、水窪の川沿いに文字通りくぼ地が狭いながらも広がっている。また、遠州浜松と信濃を結ぶ秋葉街道(別にアキバだからといってオタクの街道ではない、とベタか)の途上にあり、北の青崩峠兵越峠を越えればそこはもう信濃

さて、その水窪で何をしてきたかといえば、水窪からやや南にある高根城跡を見てきました。高根城は、15世紀前半に在地の奥山氏の築城と伝えられ、元亀・天正の戦乱の中で武田氏の対徳川前線基地となり、大規模な修築が行われた城。で、この城の何が特別かといえばそういう歴史的経緯ではなく、平成6年から11年にかけて城郭研究者の三浦正幸氏(広島大教授)及び織豊城郭研究会の監修によって発掘調査を行い、それをできる限り反映した形で中世の山城を再現したこと。さすがにそういう触れ込みのせいか、周りを歩いている人もお城好きのおじさまがたや、マニアっぽい若者が多い(地元の人が運動がてらというのも多かったが)。ただ、白人ばかりの3人組(中年の男2、女1)が城跡をしげしげ見ているのには驚いた。声をかけてみればよかったかもしれないが、姫路城・大阪城のようないわゆる石垣と天守のある「お城」ではない、こんな田舎の山城を見に来たということはやはり見識のある方々だったのか?

城は秋葉街道沿いの山(比高120メートル)に築城されていた。山を登れば、なるほど、望楼やら城壁やら土塁やら曲輪やらがすさまじいまでに再現されている。三の曲輪にある二段にわたる薬研堀も発掘調査に基づいてしっかり復元している。これは、見る価値確かにありだ。ただ、土塁を保護するためかコンクリートで固めていたのがはがれて骨組みが見えてしまっていたり、山城の本来の姿を見せるために一部山の斜面を伐採していたのが時が経ってクマザサがおおい茂っていたり、何事もつくるより維持するほうが大変だなあと痛感した。
それとは別に地元の人の建築による神社と大正四年の銘で城主奥山氏の慰霊碑が建っていて、この山の地元の人の扱いもちょっとうかがえた。

山を降りると、行きには気がつかなかったがふもとの民家の脇に石造りの小さな墓誌(一般家庭並の規模)があり、脇でおばちゃんが草むしりをしていた。墓誌を見ると、3人の奥山氏の人物の名前と没年月日(永禄・元亀の年号)が並び、その脇にはまったく別の苗字の家の名前と没年月日が並んで、その没年月日は天保から・・・えええええ?元亀から天保までの間は?そもそも奥山氏と別の苗字の家(N家と仮に)の関係は?気になったのでおばちゃんに声をかけてみると、答えは簡単だった。
「奥山家とうちは全く別々の家だけど、うちの仏壇で一緒に祀ってある」
ああ、なるほど。そういうこともあるんだなあ。いい話だなあ。墓誌の周りは畑が広がり、脇に民家があった。聞けば、ここがN家の土地で、その昔は奥山氏の屋敷跡らしい(確かに秋葉街道近くだし、その可能性は高そうだが)。

おばちゃんといろいろ話したが、ちょっと興味深かったことをピックアップ。
「すっかりお城はりっぱになっちゃったっけど、ちょっと前までは神社とお堀だけのささやかなものだったのにねえ(かなり精細な発掘調査に基づいて復元しているということは知らなさそうだ。地元の人からしたら、たしかにあんないかめしい薬研堀がにわかに現れたらホントかよということになりそうだ)」で、これに絡んで
「ここらあたりはうちのあたりも山頂も水が出ないんだけど、ホントにこんなところに城を建てたのかねえ。せいぜい物見櫓くらいだったと思うけどねえ」
なんかこれは一理ありそうな。秋葉街道をはるかに下るとある二俣城は石灰岩の上に城があるために井戸を掘っても水が出ず、井戸櫓をわざわざ作って天竜川から取水している(元亀3年に落城したときの理由は井戸櫓を壊されたからだった『三河物語』)。武田の築城関係者がその辺知らないとは思えないが、ちょっと興味深くはあるな。ちなみにこの城、武田の頽勢とともにたいした争いもなく徳川に奪還されてるから、激しい攻防戦は経験していない。