(メモ)史跡が守られる時と場合-勝瑞城館跡の場合(1)

5月の27日から3日間、阿波の国(徳島県)に行ってまいりました。
そうあちこち行ったわけではないのですが、吉野川沿い近くを走るJR徳島線*1に乗りながら、なるほど、阿波を歴史で見ても、地理で見ても、国を縦断して流れる吉野川に尽きるんだなあと痛感しました。なにせ吉野川を下り、河口あたりで海用の船に乗り換えれば、堺など畿内にそのままたどりついてしまうのですから。この吉野川の存在のおかげで、阿波は四国の中でも都会的な色彩を持ち、荘園の開発も早くから進んでいました。
この地理的利便性から、畿内に産物を調達するというのが古代から現代にいたるまでの阿波の経済の基本スタイルとなりました。特に室町時代から明治の中ごろまでは、材木と藍です。材木は、山岳地帯である上流(またはその支流)の切り出し地からからそのまま流して下流で集め、そのまま海路で持っていく。藍は、吉野川下流域の低地帯で生産。暴れ川で知られる吉野川は毎年のように秋口に洪水をおこし、おかげでこの地域は水稲の生産ができない(刈り取りの寸前で毎度水にどっぷりつかってはたまりません)。そこで考えられたのが、藍と麦*2二毛作。紺色染料の原料となる藍は春先に植えると、8月の後半には収穫を終えることができる。そして、麦は初冬に植えて初夏に収穫する。かくて、洪水の多い秋口を回避する農業スタイルを確立したわけです*3
さて、室町時代にはすでに大きな取引記録のある藍は、江戸時代に藩主の蜂須賀氏の政策によって18世紀には一大産業となりました*4。もっとも、肝心の藍産業は明治中ごろに外国産に押されて一気に衰退、現在では関西圏向けの水稲、野菜が農業の中心だそうです。
と、まあ、阿波の人たちは吉野川という環境に適応しながら、賢く日々を営んでいたわけですが、16世紀にこの阿波から出て畿内で大きな政治権力をふるったのが三好長慶(1522-1564)を中心とした三好氏。三好氏は吉野川の上流域の山地部の出身で、材木と藍からなる阿波の経済力と、山地で鍛えられた屈強な兵隊を勢力伸長の大きな武器とします。その三好氏が本拠としたのが、現在の板野郡藍住町にあった勝瑞城館。勝瑞城館は平成9年(1997年)から始まる発掘調査で多くの遺構と出土品が見つかっており、現在の発掘が続いています。勝瑞館は吉野川下流域のまさにベタ地と言っていい低地帯のど真ん中に立地し、水路が発掘されていることからも吉野川水運を重視した立地です*5。今回は、ここを主目的に行ってまいりました(って長い前置きですこと)。
続きはまた明日。

*1:徳島と阿波池田(他の路線との重複があるので、厳密には佐古駅から佃駅まで)結ぶ、徳島県を縦貫する路線。単線非電化。吉野川に沿って走ることから「よしの川ブルーライン」の愛称を持つ

*2:行ってみるとよくわかるが、徳島も北の香川と同じく、うどん文化圏ですねえ。そういやカップヌードルなどで知られる徳島製粉はその名の通り徳島ですね。上流の山地部は祖谷そばで知られるようにそば文化圏ですが

*3:あれ、すると春から初夏までは麦と藍が一緒にあるの、と思った方、その通り。麦の列の間に藍を植え込んでいくそうで、麦の列と藍の列が交互に並ぶ不思議な風景が阿波の歴史的風物詩だったそうです

*4:初代藩主・蜂須賀家政(1558-1639)が羽柴秀吉配下として播磨(兵庫県南部)にいたころ、飾磨一帯(姫路市飾磨区あたり)で生産していた藍に着目し、阿波に取り入れて大成功したとの伝承が長く徳島県では伝わっていたが、本文で言及したとおり室町時代には既に阿波の主要産品となっていたことは史料で明らかになっている。この伝承自体が藍を専売化して高い税を課し、一面では民百姓を苦しめた蜂須賀家の我田引水的で巧みな情報操作ではという話も

*5:現在は吉野川から勝瑞館までは3キロ程度離れているが、これは江戸時代の藩による治水工事による流路変更のためで、当時はもっと近くを吉野川が通っていた