地震による亀山城石垣崩壊現場を見る

4月15日、三重県中部を中心としてやや強い地震があり、亀山市中心部では震度5強を観測、お二人がけが、80数棟の建築物が破損しました*1。また、同市中央部にある亀山城跡の多門櫓の石垣が崩れたということで、これが視覚的に目立った数少ない被害だったので中日新聞が翌日朝刊で写真つきででかでかと大きく取り上げていました。
不謹慎ながら、なかなか石垣が災害で崩れるなんてなかなか見られません。そこでご迷惑なきよう一週間あけて、4月23日(月)、亀山市に行ってきました。
正午前に亀山駅到着。東海道の宿場町でもあった亀山の中心部は文字通り亀のような形に盛り上がった台地上にあり、駅から北に10分ほど歩きます。さて、多門櫓の石垣の前にたどりつきましたが…正面は壊れておらず、崩れていたのは石垣の内側の北西側の隅石。ああ。やっぱり隅石*2は難しいんだなあと再確認。16世紀後半から始まる石垣の積み方の急進歩によって、美しい算木積み*3ができるまでは石垣なんてなかなか高くできませんでしたからね。現場では積み直しで重機を使うためか、石垣近くの樹木を切り払う作業をしていました。なお、中日新聞4月18日朝刊によると、昭和47年(1972年)に台風の被害に伴いにつみなおした部位で、江戸時代初期のままの他の部分は被害が出ず、「さすが匠の技」としていました。ちょっと疑問符をつけたいのですが、突っ込むほどの知識がないのでパスしときます。
ちなみに崩れた石垣のすぐ脇には「明治天皇亀山行在跡」の石碑が。よかったですねえ、ご行幸のときに石垣が崩れませんで。そんなことがあったら一体何人が責任を問われるやら。
で、実は今回書きたいのはこんなことではなかったりします。ひとまず今日はここまでにしてまた書きます。

*1:亀山市ホームページ(http://www.city.kameyama.mie.jp/cgi-bin/release.cgi?tmpl=release&no=4&id=250&count=1)より

*2:石垣の四辺に積む石のこと

*3:隅石に整形した細長い直方体の石を、互い違いに長短に積んでいく技法。この技法が一定の完成を見るのは17世紀初頭だが、それ以前でも不整形ながらさまざまにこれに近い積み方が試みられる。江戸城、徳川大阪城などの石垣を参照