再度「三河念仏の源流」展を見る

今日は再度、岡崎市美術博物館*1に行って、前回見ただけではよくわからなかった「三河念仏の源流」展を見て、さらに一緒にその日行われたシンポジウム「三河念仏の響き」を聞いてきました。シンポジウムは演題のとおりローカルな内容を期待していたのですが、ちょっと私の考えるものとは違った、かな。若い研究者の研究発表という側面が強かったこともあり、内容は門外漢の私ではちんぷんかんぷんなものが多かったのですが、おもろいと思ったことをメモ代わりに残しておきます。
1 聖徳太子はメシア?
中世における聖徳太子の位置づけについてたびたび話題に出てきましたが、末法信仰の救世主としてしばしば登場するそうです。親鸞が六角堂*2で百日参籠を行った際に聖徳太子が夢枕に現れて今後の道を教えたとか、後醍醐天皇が自分のことを聖徳太子の転生だとのたまっていたとか*3、仏教の世界にとどまらず、救世主としての聖徳太子の存在感というのはとても面白かったです。ついでに中世の太子を描いたり彫ったりしたものに童子像が多いのも聖徳太子=救世主に関わるようですが、そこらへんはわかるような、よくわからないような…
と、ウィキペディア聖徳太子を見てみると、最近はやりの実在/非実在論は書いてあるが、歴史的に聖徳太子をどう位置づけてきたかとか、ほとんど言及ないなあ。太子みたいな人の場合は、そちらも(が)重要だと(今回改めて)思うけどなあ。
2 絵伝
前回もちょっと書いたけど、絵伝とは大きな掛け軸*4を使って寺や仏像、高僧などの由来を流れを追って説明したものです*5。一種の絵解きだそうですが、ある講演者の方が、例えば聖徳太子の命日が近付いたら、この絵伝を本堂などに飾り、檀家向けの臨時のパビリオン(展示場)にしたのではないか、と。法隆寺の夢殿の隣には「絵殿」という建築物があって、そこには「絵伝」に相当するような壁画が描かれていて、聖徳太子が安置されています。これが原型となって、おりたたみ・移動可能でしかも場所を取らずにわかりやすく庶民に教布できる絵伝が流行、したのでは?というお話でした。なお、三河真宗寺院にはこの手の絵伝がかなり残っていて、結構一般的なアイテムだったようです。
そうそう、前回中途半端に説明しました。愛知県日進市五色園という真宗系の寺院には、親鸞の生涯の各場面を実物大のコンクリート像と周囲の風景を取り合わせて描き出しています*6。なるほど、完全に絵伝の系譜なんだな、あのコンクリート像どもはw

*1:http://www.city.okazaki.aichi.jp/museum/bihaku/top.html 岡崎市美術博物館ホームページ。

*2:京都市中京区にある頂法寺の通称。実際にお堂が六角形になってます

*3:ちなみに南北朝時代には聖徳太子の「予言書」が大流行。もちろん偽書ですが、南朝は自らの権威付け目的でしばしば聖徳太子の名前を使っています

*4:展示されているものでは、1幅が縦160cm、横80cm程度で、3幅くらい使ってるものが多かったです

*5:例えば豊前善光寺所蔵「善光寺如来絵伝」http://www13.ocn.ne.jp/~bzenkoji/zph003.htm豊前善光寺サイトより)

*6:作ったのは浅野祥雲(1891-1978)というちょっとユニークなコンクリート彫像家で、東海地方の各地でいろんな彫像を作っています。そうそう、お正月に紹介した南知多町、中之院の兵士像(http://d.hatena.ne.jp/Genza_Aboshi/20080105)も調べてみたらこの人でした